突然だが、私の家は、忍術学園からかなり遠い。
たまには家族に会いたくても、面倒でここ数年全く帰省していない。
…実家には少々複雑な思いがあるし。
けれど――来年こそは帰ろうかなと思う。
長い旅程も、旅の道連れがいれば退屈ではないと思うから。
学園内にほとんど人の残っていない、冬休みのある日のことだった。
ここのところなんだか憂鬱で、今日も朝からどうも気分が優れないとは思っていたのだけれど。
「うー…頭痛い…」
とりあえず食堂までは来たものの、食事するのもだるいし今日はもう部屋で寝てようかな…などと、考えていた矢先。
べちゃり。
入口の暖簾をくぐった瞬間冷たく柔らかな衝撃とともに視界が白く染まり、そのままぐらりと傾いた。
「え…?」
…これがとどめだった。
目が覚めると、見慣れない、さりとて見知らぬわけでもない天井が目に入った。
どうやら医務室に寝かされているようだ。
「目が覚めた?」
枕元から声がして身体を起こすと、そこにいたのは五年生の久々知先輩だった。
最近よく人手の足りない火薬委員の手伝いをしているので、仕事を教わったりしてお世話になっている。
真面目だし、優秀だし、親切だし、いい人だ。
…ことあるごとに人を勝手なあだ名で呼ぼうとするところを除けば。
「いやーほんと、騒ぎになって大変だったよ。とうとう久々知が豆腐の角で人を殺しただの忍法毒やっこだの」
…えーと。何があってどうしてこんなところにいるんだっけ。
「ごめん、覚えてないかな?君が食堂に入ってきた瞬間、うっかりと冷ややっこが君の顔に…」
ああ、あの飛来物体は豆腐だったのか。
でも豆腐って飛ぶものだったかなあ。
などとぼんやり考えつつ頭に手をやると、若干髪は湿っているものの、何もついていない。
「ああ、安心して。一応処理はしといたから」
…寝ている間に拭いておいてくれたらしかった。
ありがたかったが、どうにも恥ずかしかった。
…しかもよく見ると、彼の制服の胸元が若干濡れている。
自分がどうやって運ばれてきたのか、思い至らない訳にはいかなかった。
「本当にすみません…色々してもらっちゃって」
「とんでもない!謝るのはこちらの方だ。
…本っ当に申し訳ない。全て俺の責任だ」
私が詫びの言葉を口にすると、先輩はものすごい勢いで両手を揃えて床につき頭を下げた。
土下座だった。そりゃあもう見事な土下座だった。
「あ、頭をあげてください!
元々体調を崩していたんです。
倒れたのは別に先輩の責任でもなんでも」
「そんなことはないよ!
そもそも食堂で悪ふざけなんて言語道断だ。
元はと言えばあの化け狐があんなことを…
いやしかし、安い挑発に乗った俺がいけなかった。
君には大変な恥をかかせてしまった。
だから、遠慮などしないで、いやむしろ俺を助けると思って、
最後まで看病させてほしい」
「い、いや、さすがにそこまでしていただくわけには…」
「いいかい。知ってると思うが今学園は冬休み中だ。
折悪く明日の夜まで校医の先生も帰ってこないし、
任せられそうなくのたまも残っていない。
どうか承知してほしい」
こっちの目を真っ直ぐ見て言い分を訴え、また床に額をつける先輩。
「このまま君にもしものことがあったら、俺は」
お願いだからそんな切羽詰まった声で懇願するのはやめてください。
「わかりました、わかりましたから!
どうぞ心行くまで私を看病してください!」
そうか。土下座って恫喝に使うものだったのか。勉強になるなあ、まったくもう!
「すぐに食事を用意する。…その間に寝巻に着替えておくといい」
さすがに勝手に着替えさせるわけには行かなかったから、と言い残して先輩は出て行き、私は一人医務室に残された。
「割と健康には自信があったんだけどなあ…」
浴衣に袖を通して帯を締めながら、つい一人ごちた。
倒れるほど熱出したのなんていつぶりだろう。
多分、まだ学園に入学する前。実家にいた頃だ。
そう思うと不意に、実家の味が懐かしくなった。
そう。こんな風に風邪をひいたときには、よくお母さんが、作ってくれたっけ…
「用意できたよ。入ってもいいかい?」
もの思いにふけっているうちに、先輩が戻ってきた。
「ええ。もう、着替えました」
慌てて頭を切り替え、戸を開ける。
…が、お盆の上にあったものを見た瞬間、
「どう、して…」
…せき止めていたものが、決壊した。
「湯、豆腐…」
「それと、卵酒。食堂のおばちゃん謹製」
…なんということだろう。この人は、本当に。
気付いたときには既に遅く、目から膝の上に生ぬるい液体が滴っていて――
無様にも泣き顔を晒してしまっている自分がいた。
「豆腐の切り方は異様に綺麗ですがネギの切り方が雑すぎですね。
愛情の偏りがありありと見てとれます。
それに味付けも単調です」
「は、ははは…手厳しい」
とりあえず気の済むまで泣いてすっきりした私は、
何事もなかったかのように湯豆腐に箸を付けていた。
…思いっきり抱きついたり頭ぽんぽんされたりしたことは思い出してはならない。
全て体調不良のせいだ。私は何も悪くない。悪くないったら悪くない。
「でも…懐かしい味がします」
「……」
「まだ、言ってませんでしたね……私が、例のあだ名で呼ばれるの嫌な訳」
「…それと、何か…関係あるの?」
「別に大した理由じゃないです」
私は言葉を切り、息を吸って思い切って声に出した。
「…豆腐屋なんです。私の実家」
「……それって、つまり、」
ははははははははは。
先輩はしばらくきょとんとした顔で沈黙したかと思うと…声をあげて笑った。
ひいひい言いながら涙目で床をばしばし叩いている。凄まじい大爆笑だった。
こんな風に笑う人だったのか…。
…本当に、大した理由じゃない。むしろくだらないことだ。
地元ではそこそこ名の通った老舗の豆腐屋を経営する両親は、こともあろうにたった一人の愛娘にキヌと名付けやがった。
絹のようにしなやかで、絹豆腐のように色白な美人になりますように…とかなんとか、そんなような意味らしい。別にそれだけならいいのだ。それだけなら。
…うちの名字が「不動」でさえなければ。
「豆腐屋が豆腐を誇りに思って何が悪い!」とのことだが、私にとってはいい迷惑だ。
おかげで幼少の頃の私のあだ名は「絹豆腐」だった。
私が、わざわざ地元から遠く離れたこの場所でくのいちになることを志したのは、恥ずかしながらそれが理由だったりする。
「素晴らしい!なんというセンスだ!
君の両親は神か!?是非一度お会いしたい!いや会わせてくれ!」
…どさくさにまぎれて何言ってんだこの男。
ていうかそろそろ笑いやめ。
「いい加減にしないと先輩の頭の中の豆腐をシェイクします」
彼女の据わった目の圧力に俺は笑い続けることができなくなり…とりあえず、仕切りなおして俺もご相伴にあずかることになった。
…実は最初から器と箸は二人分用意してあったりする。ずうずうしいなあ俺も。
「…さっきの話ですけど…いいですよ。会わせてあげても」
「…え?」
「久々に家に帰りたくなっちゃいました。
来年こそは帰省するつもりですけど…一人旅って退屈なんですよね」
話し相手がほしいのですが、と上目づかいにこちらを窺う彼女。
「……いいの?」
「勿論。やっと帰る気になったのも、先輩のおかげですから」
豆腐のフルコースを御馳走しますよ、と微笑んだ。
「あ、卵酒さめちゃった…もったいな」
「おいおい、そんな一気に飲んだら…」
俺がとめるのも聞かず、彼女はごくごく、と温い卵酒を威勢よく飲みほした。
「ぷっはー、ぬるーい」
その所作の余りの男らしさに思わず笑ってしまう。
…本当に、今日は彼女の色んな顔を見た。
寝顔に泣き顔…それから、笑った顔。
…けれど。
実はまだ彼女にとんでもない一面が隠されていたとは…
そしてそれをこの後すぐに思い知ることになろうとは――
この時の俺は、全く思いもしていなかった。
「まあ、それだけ元気なら明日には熱も下がるだろう。
俺はそろそろひっこむから、後はゆっくり寝て養生したまえ――絹豆腐くん」
すっかり和やかな雰囲気になって、油断してしまった。
うっかりと俺は、我慢していた彼女の愛称を口にしてしまっていた。
それがどれほど危険なことか――分かっていたはずなのに。
次の瞬間。
「…っ!?」
凄まじい勢いで跳び起きた彼女に思い切り突き飛ばされ、上から圧し掛かられて――
有体に言うと、押し倒されていた。分かりやすく言うとマウントポジション。
年下の女子とは思えない力で押さえつけられて、ほとんど身動きもできない。
何これ。…何これ、どういう状況だこれは!?
「懲りない人だなー。言いましたよねー?」
口元はにやにやと笑みを浮かべているが――爛々と光る目は全く笑っていない。
いや、それだけじゃなく――妙に胡乱で…熱っぽく潤んでいる。
白皙の相貌はなぜかほんのりと赤い。
…おい、これってまさか。
「私のことを絹豆腐と呼んだ者はぁ……例外なくぶっとばすって」
こいつ、酔ってる。
…卵酒ってアルコール飛ばして作るものじゃなかったっけ。
どうやったらここまで出来上がってしまうんだろうか。
「でもぉ、今日はだるいしー…先輩には色々していただいてることですしー…
その御恩に免じて今日のところは勘弁したげますー…」
「それはありがたいなあ…それじゃあとりあえず俺の上から退いて、
布団に戻ってくれるかな…?」
なんで下手に出てるのかってそれは、肉食獣じみた獰猛な目つきに竦んでいるのでも異様な怪力が恐ろしいのでもない。
乱れた浴衣の前が今にも肌蹴そうだからだ!
「その代わり罰としてー、先輩には私の風邪を引き受けて頂きまーす」
「…へ?」
「風邪は人に感染(うつ)すと早く治るっていうじゃないですかー…
だから感染します。先輩に」
「は、はは…うん、まあ思う存分そうしてくれたまえ…どうやるかは知らないけど」
彼女の胸元から懸命に目をそらしつつ俺は言った。
風邪を人為的に感染させる方法は知らないが、酔っ払いの言うことだ、きっとまあ、おまじないとかそんなところだろう。
うん、効果があるかどうかは知らないが、いくらでも呪われてやろうじゃないか。
それでここから解放されるのなら…
「だからおとなしく抱き枕になってください」
「…ごめん、今、なんて」
「今夜一晩ー、抱き枕になれと言いましたー」
「○×◎△●※!?」
どうしていきなりそういうことを言い出すかなあ!
いつもは礼儀正しく折り目正しく、ちょっとそっけないくらい冷静なくせに!
名前のことになるとちょっと熱くなるきらいはあったが…
ここまで別人格ではなかったはずだ!一体どうしてこうなるんだ!
…とにかく、このままでは取り返しのつかないことになる。
逃げよう。
…と、じたばたともがいてはみたがそもそもこの体勢では抵抗などろくにできるはずもなかった。
勿論普段の彼女はこんな埒外な馬鹿力ではない。
酔うと体内のリミッターまで外れるのか。ありえねえ。
「あぁんもう暴れないでくださいー。
くっついてなきゃ感染らないじゃないですかー」
甘い声で彼女は言って俺に頬を摺り寄せる。
「落ち着け、正気にかえれ不動君!自分が何を言ってるのかわかっているのか!?」
「くっちーの言うことなんかわかんないですー」
「く、くっちー!?」
「人が嫌がってるのに恥ずかしいあだ名を使うようなお馬鹿はくっちーで十分ですー」
「…………」
わかった。もう絶対呼ばない。呼ばないから勘弁してください。くっちーだけは。
「えい」
がしり、と彼女は両手足で放心している俺にしがみつき――
そのままごろごろと転がって、立ち上がることなく布団の中に戻ることに成功した。
…ただし俺ごと。
「えへへ。あったかー」
にへら、とだらけた笑みで頬ずりしてくる。
いつもの毅然とした面影が脳裏に浮かんで――そのとてつもないギャップに眩暈を覚える。
…これはどうやら、本気で風邪をこじらせることになりそうだった。
…すみません不動君ちのお父さんお母さん。来年にはご挨拶に伺います。
だから、今だけは――今夜だけは。
<終>