「や、伊作。特に怪我はないけどお茶飲みに来たよ」
「あぁ、実習無事に終わったんだね、お疲れ様」
実習を何事もなくこなす事の出来た放課後、その足で保健室へ向かうと、何か薬を作っていたらしい伊作に柔らかい笑顔で出迎えられた。
慣れた手つきでお茶を淹れてくれた伊作の手から、既に私専用の物と化している湯呑みを受け取る。
あぁ、何だか「帰ってきた」って感じでほっとする。
折角淹れてもらったんだから冷めないうちに、と湯呑みに口を付けると、そのタイミングを見計らったかのように伊作が口を開いた。
「ねぇ」
「ん?何?」
「実は今ね、惚れ薬の研究をしてるんだ」
予想だにしていなかった衝撃的な言葉に危うくお茶を吹き出しそうになってしまったが、何とか飲み込む。
その代わりに盛大にむせてしまった。
咳の収まらない私の背中を「大丈夫かい?」と言いながらさすってくれるのはありがたいが、心配してくれるならそうなる原因を作らないでほしかった。
「落ち着いた?」
「…咳の方はね」
毒気のない笑みを浮かべながら爆弾発言を投下してくれやがったこの男をじとりと睨みつけると、私の言いたい事を汲み取ってくれたようで、笑顔のまま説明をくれた。
「毒薬とか睡眠薬とか、そういった類の物は人体に直接作用するものだから理論で説明出来るけど、人の感情は理論で割り切れないだろう?そういった理論で割り切れない物に挑戦してみたかったんだよ、いわゆる知的好奇心って奴かな」
「…ふぅん」
「あ、あと“無駄が多い”って予算削っておきながら下らない喧嘩で薬の無駄遣いをする馬鹿がいるからね、これを使えば平和的に解決出来るかな、と思って」
「……」
どう聞いても平和的には聞こえない作戦だが、下手に突っ込んで巻き込まれるのはご免こうむりたいので、喉まで出かかった言葉はお茶で流し込む事にした。
「効力は持って一時間、飲んだ後最初に見たものに夢中になるんだよ。ちなみにさっき留三郎で試したらアヒルさんボートの船首飾りに頬摺りしたまま離れなくなっちゃって、留三郎を探しに来た用具委員の三年の子が“食満先輩お気を確かにー!”って青ざめちゃってねぇ」
あれは面白い光景だったなぁ、とにこにこしながら伊作はその時の状況を具に語ってくれた。
「へぇ、その光景私も見たかったな」
あの留三郎が顔をでれっでれに緩ませてアヒルさんボートの船首飾りに夢中になってる姿なんて、この機会を逃したら二度と拝めないだろう。
留三郎には悪いけど、その面白い光景はちょっと見てみたかった。
「ところでそのお茶どう?美味しい?」
「美味しいよ、伊作お茶淹れるの上手だもん」
「ありがとう、美味しかったなら良かった」
伊作は私の湯呑みの中が空である事に気が付いたようで、「お代わり淹れようか」とお茶の準備をしてくれた。
こういう自然な気配りが出来るのが伊作の良い所なんだよね。
話してる内容はともかくとして、何処となく和やかな気分になっていると、自分の分と私の分、二人分の湯呑みにお茶を注ぎながら伊作が口を開いた。
「あ、そうそう」
「ん?」
「さっきが飲んだお茶に入ってたんだよね、その惚れ薬」
一瞬、私の思考が固まった。
それってつまり…。
「何飲ませてくれてんの伊作!?全部飲んじゃったじゃん!」
「いやぁ、留三郎で試した時は物相手だったからさ、今度は人相手に試してみようかと」
「元々文次郎用に作ったんでしょ、だったら本人で試してよ!」
「嫌だな、僕だって好かれる相手くらい選びたいよ。一時間ずーっとあの暑苦しい文次郎に言い寄られるなんて、ただの拷問じゃないか」
「ねぇ、解毒剤ないの解毒剤!」
「安心してよ、そんな強いものじゃないし、すぐ効果切れるから」
「その反応は“ない”って事か…。後で覚えてなよ伊作」
まるで「今日の晩ご飯何だろうね」と言う時のような調子で知らされたのは、とんでもない内容だった。
薬の匂いの染み着いた伊作の制服を掴んで必死に言い連ねてみるも、伊作は何処吹く風といった様子に爽やかな笑顔で言葉を返してくる。
「…で、どうかな?気持ちに変化ある?」
凄く楽しげに顔を輝かせて伊作は問うてくるが、そこで私は気が付いた。
…あれ、別に変わった所ないや。
「いや、特に…」
自分の思った事をそのままに伝えると、伊作は不思議そうな表情を浮かべた。
「おかしいな、即効性のはずなんだけど」
私の顔を覗き込んで「確かに変化なさそうだなぁ」と呟くと、伊作は顎に手を添えてうーん、と唸り始めた。
「途中で調合間違えたのかな、いやでも留三郎にはちゃんと効いてたみたいだし…」
とりあえず私は何ともなかったようなので、伊作の制服から手を離してやる。
伊作は思考に没頭しているようで、私の事は意識から外れているみたいだ。
現に私が手を離した事にも気付かない様子で、ああでもないこうでもないとぶつぶつ唱えている。
何気なく床へと視線を動かすと、伊作がお茶を淹れるのに使っていた急須の傍らにいつもは見掛けない小瓶がひとつ、置いてあるのが目に入った。
私の座っていた位置から死角である事から考えても、この小瓶の中に入ってるのが例の惚れ薬なのだろう。
屈みこんでその小瓶をそっと持ち上げてみると、中からちゃぷ、と水の揺れる音が聞こえた。
…まだ中身が残ってる、か。
伊作は、私の行動に気付く様子はない。
自然と笑みが零れる。いい事思い付いた。
「ねぇ伊作」
「…ん?何だい?」
笑いが込み上げてくるのを必死に噛み殺して、怪しまれないよう自然体を装って伊作に呼び掛ける。
唐突に名前を呼ばれてきょとんとした表情を浮かべた伊作は、「狙って下さい」と言わんばかりに隙だらけだ。
にっこりと笑みを浮かべて、小瓶を握りしめた右手を構える。
「原因知りたいなら、伊作も飲んでみなよ」
これでも私、実技は得意な方なんだよね。
抵抗される前に、素早く伊作の口の中に薬を流し込む。
げほごほとむせながらも全部飲み切った伊作とばっちり目が合った。
「……」
「……」
「…あれぇ?」
心底不思議そうに小首を傾げる伊作は、いつも通りの伊作で。
「何も変わらないなぁ」
「やっぱり失敗作だったんじゃない?たまたま私には効かなかった、とかだったら面白かったんだけどな」
限られた時間でもいいから伊作が私だけを見てくれれば、なんてほんの少しは期待してたんだけど、薬で人の心が動いたら苦労しないよね。
顔には出さず、心の中だけで溜め息を吐く。
「あ、でもね、」
その呼び掛けに、返事の代わりに伊作の目を見て、続きを促す。
「こんな薬がなくったって、僕はの事好きだよ」
いつもの柔らかい笑顔で「ひょっとしたら、元々好いてる相手には効果がないのかもね、これ」なんて言う伊作は、確実に私の反応を待っている。
完全に退路を断たれた私に残された選択肢は、「前に進む」しかなくて。
伊作の思うがままになってるのはちょっと悔しいけど、結果オーライって事で納得しといてあげますか。
惚れ薬無効化法
(逃さないためのきっかけを作るために)