夜中にふと目が覚めて、そのまま再び眠りに就こうかとも思ったけれど、どうも目が冴えてしまったらしくそういう気が起こらなかった。
かと言って、部屋でじっとしているのも退屈で、何となく夜の散歩でもしてみるかと長屋の廊下をふらふらしていると、見知った後ろ姿が目に入った。
「あれ、?」
「ひゃあっ!」
俺の思い描いた人物かどうか確かめてみようと声を掛けてみると、叫び声と共に背中が壁にくっつくまで勢いよく後退られた。
背中が壁にくっついてもまだ下がろうとしているは、声を掛けた人物が俺だとわかると、やっとこさ壁と一体化しようとするのをやめた。
「…何だ、兵助か。もう、驚かさないでよね」
「いや、普通に声掛けたつもりなんだけど俺」
それなのにずざざ、と凄い勢いで後退られて、俺の方が驚いたと喉元まで出かかったのを何とか飲み込んだ。
余計な事は言わないのが得策だ。
も落ち着いてきたようで、深く一息吐いた。
と、そんなを何心もなく観察していると、その大きな瞳が少しばかり涙目になっている事に気が付いた。
「…何かあったのか?」
「……あの変装マニアがさ、」
の話を整理すると、こうだ。
夜中に俺と同じくふと目が覚めて、ちょっと夜風にでも当たろうかと一人で長屋内を散歩していたら、運の悪い事に三郎の悪戯の標的に抜擢されてしまったらしく、
曰くあまり夜中に遭遇したくないと言うか思い出したくもない格好をした三郎に、それはそれは怖い思いをさせられたそうで、気が付いたらここにいたらしい。
「…あいつ、今度昼間に見かけたら顔が変形するまで殴り続けてやる」
「……」
はまともに話を聞いてくれる人間に会えて安心したのか、三郎にとっては不穏な事をぼそりと呟く。
そんな物騒な発言に全く以て関係のない俺は、別の事が少し気になった。
…今の話と彼女の様子から推察するに、ひょっとしては怖がりなんじゃないだろうか。
普段から男勝りな所を見ている分、三郎じゃないがちょっとした悪戯心が湧いてきた。
「…あ、の後ろに」
「ふえぇ!?」
努めて真剣な顔を作り、の頭の斜め上くらいを指差しながらそう言うと、後ろは壁、目の前に俺という状況のは何の躊躇いもなく俺にしがみついてきた。
「……壁があるけど」
「…兵助、ちょっと顔貸そうか」
「何、ひょっとして怖いの?」
「べ、別に怖くなんかないし!ちょっとびっくりしただけなんだから!」
からかうように言ってやると、俺の着物を握ったその手は離さないまま、顔だけを上げてどう聞いても強がりにしか聞こえない台詞で反論してきた。
目は口ほどに物を言うとは正にこの事だろう、今にも泣き出しそうなくらいの潤んだ瞳でそんな事言われても、説得力は微塵も感じられない。
…やばい、俺今好きな子ほどいじめたいっていう気持ちが凄く理解出来る。
恨めしげに俺を見上げてくるには悪いが、…いいな、これ。
「怖くないなら離れたら?」
「い、言われなくたって離れてあげるわよ!」
自然と上がってくる口端をそのままに言い放つと、漸く自分のしてる事に気が付いたかのようにその黒い瞳を大きく見開いた後、ばっと勢いよく俺から距離を取った。
そんなに、さらに追い討ちをかける。
「…で、はこれからどうするんだ?この暗い長屋を一人で歩き回って部屋に戻るのか?」
「…う…」
「あ、そう言えば一人部屋だったよな、じゃあ無事部屋に帰り着いても誰もいない訳だ」
「……」
「あぁ、でもは全く怖くないんだっけ?だったら一人でも大丈夫だよな、俺今日同室の奴いないし、泊めてあげてもいいかと思ってたけどその必要はなさそうだな」
じゃあな、と言うだけ言って踵を返してみせると、すぐに袖をぐっと引かれた。
「え、あ、ちょ、」
「ん?どうしたの?」
わかっていながら答えを促すようにわざとそう問うと、凄く言いにくそうに視線を逸らしながら、背に腹はかえられないといった表情では口を開いた。
「…泊めてください」
「そんな小さな声じゃ聞こえないよ、もう一回言って」
「…兵助の部屋に、泊めて下さい!」
明らかに俺が楽しんでるのに気が付いたのだろう、一回目は聞き取れるか聞き取れないかくらいのか細い声だったが、二回目はもうやけくそといった感じだった。
「よく出来ました」
よく下級生にしてやるように頭を撫でてやると、言い返す言葉も見つからないのか悔しそうにじとりと涙目で睨みつけてきた。
…まぁ、このくらいにしておこうか。俺も十分楽しんだ事だし。
「それじゃ、行こうか」
からかうのを止めて手をすっと差し出すと、少しばかり逡巡した後、おずおずと手を握ってくれた。
人の手を握ると安心するって言うし、これで怖さを紛らわしてあげる事が出来たらと手に力を込めて自室への道を辿るべく足を進めた。
―――翌日。
「よぉ兵助、眠そうだな」
「…まぁな」
そりゃ、俺と同室の奴、二組分の布団しかない状況で「人の布団を勝手に使うのは気が引ける」とが申し出てきて必然的に俺の布団で一緒に寝る事になって、
それだけならまだしも俺を抱き枕代わりにして熟睡されれば、な…。
要は一人で寝るのが怖かっただけなんだろうが、その状態で一晩明かす俺の身にもなってくれ、と切実に思った。
「ちょっとは良い思い、出来たか?」
にぃ、と三郎は嫌な笑みを浮かべた。
そう言えば、そもそもきっかけを作ったのは、他でもない目の前のこいつだ。
「三郎、お前知って…っ」
「いやぁ、俺もまさかあそこまで驚かれるとは思ってなくてな、それでちょっと気になって追い掛けてみたらお前が声掛けてるのが見えたから“あぁ、良い事したわ俺”と思って」
ちょっとくらいは感謝しろよ、と笑う友人に素直にお礼を言うのが図星を指されているだけに何となく悔しくて、感謝の言葉は心の中に押し留めておく事にした。
「お、噂をすればじゃん。行ってこいよ」
気を遣ってくれたのだろう、三郎はそう言って俺の背中を軽く叩くと、じゃあな、と一足先に食堂へと行ってしまった。
「」
「あ、兵助」
朝、着替えるために寝惚け眼を擦りながら、ふらふらと俺の部屋から出て行ったは、もう意識もすっかり覚醒しているらしく、ぱっちりと開いたその大きな瞳に俺の姿を映した。
「…あ、あの、昨日はありがと」
どうやら昨日部屋に泊めてあげた事に対するお礼らしい。
うーん、わざと怖がらせて部屋に来るように仕向けた訳だし、「どういたしまして」と返すのもなぁ…。
そう思って黙っていると、は続けた。
「だからその、お礼に今日の豆腐料理は全部兵助にあげる」
「え、いいのか?」
思わず聞き返すと、はひとつ大きく頷いた。
食堂はいつも学園生徒や教職員で混雑している。
だから俺に豆腐料理をくれると言う事は、一緒の時間に食事を取るという事になる。
上手くいけば、今日は三食と一緒に食べれる訳だ。
豆腐も嬉しいが、俺としてはそっちの方が何倍も嬉しい。
「…そ、それでさ、豆腐くらいいくらでもあげるから、昨日の事は誰にも言わないでほしいって言うか、いやむしろ綺麗さっぱり記憶から抹消してほしいって言うか…」
ほんのりと頬に朱を差して、は言いにくそうに視線を逸らして言った。
負けず嫌いなの事だ、あぁも簡単に弱点を見せたのが悔しかったのだろう。
…あ、あと恥ずかしい、もあるかな。
「誰かに言うつもりは全くないけど、忘れたくはないな」
「え、いや本当毎日でも豆腐あげるよ!?何、何が不満なの?」
思ったままの事を口に出すと、物凄い勢いでが更に好条件を提示してきた。
別に条件に不満があった訳じゃない、むしろ条件は魅力的なものだった。
ただ、俺は。
「だって、折角が俺を頼ってくれたのに、忘れるなんて勿体無いだろ?」
「え…」
恐らく予想もしてなかった反応を返したからだろう、は俺の言葉を消化しきれていないようで、きょとんとした表情を浮かべる。
一呼吸置いてから、俺は続けた。
「また俺を頼ってよ、怖くない時でもさ」
豆腐よりも、強がりで意地っ張りな君が欲しいなんて、今はまだ言えないけど。
怖がり対策、模範解答
(怖がりな君を守る役目は、どうか俺に)