本や資料が一見無造作に置かれているようでそれなりに規則性を持って整理されている机の上、私の目線はパソコンと資料を行ったり来たりと大忙しだ。最初は見上げる程の高さになっていた書類の塔も、先生の字が読みやすかったお陰で随分と低くなっていた。部屋の主のいない今、この部屋に響くのは私の奏でる無機質なキーボードの音だけだ。
本来なら、私も今日という日は大学で運命的な出会いを果たした素敵な彼氏と過ごす予定だったのだが、生憎世の中そう甘くはなかった。受験生の頃は「来年の今頃には…」と思いを馳せていたのだが、素敵な彼氏候補様には残念ながら未だに巡り合えていない。とはいえ、家で一人で過ごすというのも何だか負けを認めた気分になりそうなので、先生が「暇な日あったら手伝いに来てよ、バイト代は支給してあげるから」と言っていたのを都合良く思い出し、思いっ切り仕事人になってやろうと学校まで足を運んだ訳だ。節分は過ぎたし、豆をぶつけられる事ももないだろうから安心して鬼になろう、仕事の鬼に。どちらかと言うと先生の方が鬼である気もするけど、口に出すと何倍にも膨れ上がって言い返されるのが目に見えてるので頭の中だけで思っておく事にしておく。私は占いでも都合のいい部分しか信じない主義だ。
一番上の資料のデータを正確に入力した事を確認して、次の資料へと手を伸ばした。長時間ずっとデータの入力作業を続けていた所為か、丁度切りの付いた所で肩の筋肉を動かそうと大きく伸びをした所で、がちゃりと扉が開く音がした。ノックの音がしなかったから、誰が入ってきたかなんて確認せずとも分かる。この部屋に堂々と入る権限を持つ人物なんて、一人しかいない。
「少し休んでいいよ。そろそろ疲れてきたでしょ」
机の上にそっと置かれたのは、湯気の立ち昇るカップだった。いつの間にかこの部屋にお邪魔する事になった私専用のカップに入っているのはココアだろうか。甘い匂いがふわりと漂う。
「…先生、後から飲み物代請求しないでしょうね?」
「何、僕がそんなにケチに見える訳?自分の仕事を手伝って貰ってる訳だし、これくらいはサービスするに決まってるじゃない。文句があるなら僕が飲むよ、折角わざわざ淹れてきてあげたっていうのに」
「ありがたく頂きますすみませんでした」
「初めからそうやって素直に受け取ってればいいんだよ」
このお手伝いを始めてからそれなりに月日が過ぎてきただけあって、先生の鋭い物言いにも大分慣れてきた。最初はバイト代に釣られて軽い気持ちで始めたお手伝いだけど、いつの間にかここで過ごす時間そのものが楽しいと思えるようになってきた。…いや、バイト代も勿論大事なんだけど。
いつもと変わらず汚れ一つないまっさらな白衣を翻してお気に入りの回転椅子に手を掛けて腰掛けると、先生も自分用に淹れてきたらしいコーヒーに口を付け始めた。
「…あぁ、まだ熱いから気を付けなよ、周りの資料とパソコンに被害を及ぼさないように」
「先生、私の心配が抜けてますよ」
「何?大学生にもなって猫舌だって自覚してながら熱いって分かってるもの飲むつもりなの、は?」
「…私が猫舌だって知ってるんなら冷たい飲み物持ってきて下されば良かったのに」
「へぇ?ここあんまり暖房効かないし、冷え込むかと思ってわざわざ温かい飲み物を選んであげたっていうのに、事もあろうに冷たい飲み物が良かったって?折角の僕の気遣いを無駄にしてくれる訳だ、は」
「………お気遣いどうも」
「分かればいいんだよ、分かればね」
ああ言えばこう言う、というのは笹山先生のために作られた言葉なんじゃないだろうか、と常々思う。先生が若いっていうのもひとつの要因だろうが、ついつい相手が目上だという事を忘れて言い返してしまう。そのまっさらな白衣に手元のコーヒーでも零せばいいのに。勿論先生がそんなヘマをするはずがない事など分かり切っているので、実際にその現場を拝める事はないんだろうけど。
とはいえ、折角のご厚意を無駄にするつもりもないので、まだ飲める温度ではなさそうだけどとりあえず冷えてきた手だけでも温めようとカップを両手で包みこむ。
あぁ、甘い匂いが私に「早く飲んで」って言ってる気がしてきた…。どうして私の人体構造は熱いものを拒否するように作られてしまったんだろう。…と、目の前に用意された飲み物にそこまで思いを馳せた所でそう言えば、と思った。何処か違和感を感じていたのだ、この匂いに。
「先生、ひとつ質問いいですか」
「手短にね」
「先生って、コーヒーしか常備してませんでしたよね」
「…君は余計な所でしか観察眼を働かせないよね」
何でこういう時に限ってしかその鋭さを発揮しないのさ、と溜息交じりに零される。そう、笹山先生は甘いもの嫌いとまではいかないにしても、別に甘党って訳でもない。普段お手伝いしてて出される飲み物は、大抵研究室に常備されてるコーヒーなのだ。一応ガムシロップやスティックシュガーも棚に入ってはいるのだが、それを消費するのは殆ど部屋の主以外で、なくなった頃に私が先生に補充を要請するくらいだ。甘い飲み物がある事自体珍しい。そんな気分の日もあるのかとも思ったが、先生のカップの中身は色からしていつも通りのブラックコーヒーのようだ。甘い飲み物は私の分だけ。これは一体どういう風の吹き回しなんだろうか。どう質問すれば一番的確なのか、しっくりくる言葉が見つけられないので、目線だけで問うてみると、先刻よりも深い溜息が聞こえた。
「…別に、ただの気まぐれだよ」
「…はぁ」
先生にしては歯切れの悪い回答だった。どうやらこれ以上の追及は受け付ける気がないらしく、先生は飲みかけのコーヒーもそのままに、眼鏡の位置を直すとまた資料を一枚手に取って研究モードに切り替わってしまった。
自分が口にしていない所を見ると、わざわざ私のために準備してくれたのだろうか。随分と不思議な気まぐれもあるものだ。笹山先生は時々よく分からない。
まぁ、真意がどうであれ、気遣いは嬉しいのでありがたく受け取っておく事にする。そっとカップの淵に口を付けてみると、やっぱり甘い味がした。
ビター・スイートに砂糖をひとつ
(「あ、これチョコ入ってる奴ですね!ひょっとして逆チョコって奴ですか!」「…うるさいよ」)