携帯を開く。閉じる。くるくると向きを変えてみる。腰かけていた椅子から立ち上がり、ホワイトボードの掛かっている方へ移動したかと思えば 今度はロッカーの方へ向かい、かと思えばまた別の方向へと歩き出す。 授業も全て終わり、ぽつぽつと部員が集まり始めたテニス部の部室の中、誰の目から見ても幸村に落ち着きは見られなかった。 部室内の椅子に座っているところまでは日常風景であるのだが、問題はその行動だ。 手にした携帯電話を開いたかと思えば閉じ、閉じたかと思えば手持無沙汰そうにくるくると向きを変えて遊ばせている。 かと思えば部室内をうろうろと所在なさげに移動する。何処か上の空で、だがしかし携帯電話にはしっかりと意識を向けているようだ。 しきりに携帯電話を気にしているのは誰の目から見ても明らかである。
「…あの、部長どうしたんスか?『反応が悪すぎるよ!』とかそんな理由で携帯の腹筋でも鍛えてるんスかあれ。 やたら開いたり閉じたりしてますけどいくら何でもやりすぎじゃないっスかあれ。そろそろ携帯が悲鳴上げそうな気さえ してくるんスけどっていうか携帯が悲鳴上げる前に今日の練習でとばっちりきそうで怖いんですけど!」
「安心しろ、とばっちりは今朝からずっと弦一郎が引き受けてくれている。…まぁ、本人の意思ではないんだがな」
「それ全然大丈夫じゃねぇっス!」
流石の赤也も普段とかけ離れた部長の挙動に正に「触らぬ神に祟りなし」、下手に触れない方がいいと判断したのだろう。 近くにいた無害そうな先輩に尋ねる。だがしかし一見安全そうでいて恐らくこの状況を誰よりも楽しんでいるであろう先輩―――――柳から返ってきたのは 全く安心できない回答だった。
「大体何であんなにそわそわしてんですか部長…見ててこっちまで落ち着かなくなるんスけど…」
「青学のマネージャーから誕生日祝いの言葉を待っている確率、百パーセントだ。まさかこれほどまでに精市の落ち着きを奪うとはな。お蔭で面白いデータが取れた」
安全な対岸から眺めるだけに留めている二人の会話など気にも留めず、幸村は相変わらず忙しなく携帯電話をくるくると回し、電波の受信を待っているようだ。 しかし、二人の会話を耳にしておせっかいを焼かずにはいられなかったのだろう。真田がとうとう幸村に進言する。
「幸村……その、だな。き、きっとあのマネージャーも今頃どんな文を送ろうか頭を悩ませて、必死にしたためているのだろう。 お前のことを想うが故に時間がかかっているのかもしれん。だからだな……」
「……へぇ、お堅い真田にしてはまともなことを言うじゃないか。この手のことはさっぱりの癖にさ」
部室にいる面々は室内の温度が二度ほど下がったように感じた。着替えたり道具の調整をしたりしながらも二人の様子を見守っている。 無論、真田の無事を案じてではなく、いざという時に自分達の身を守るために。眺めていた携帯をぱたん、と閉じると幸村は静まり返った部室の中、その凛とした声を響かせる。
「…まぁいいや。今日はとことん練習に付き合ってもらうよ、真田。なんだか無性に身体を動かしたくてたまらないんだよね、今日は」
そう言ってふふ、と笑ってはいるものの、目は笑っていなかった。 やっぱり本人を刺激しなくてよかった、と胸を撫で下ろした赤也は尊い犠牲となってくれた真田に心の中で手を合わせつつ、「触らぬ神に祟りなし」という言葉を実感したのだった。
「…はぁ」
思わず溜め息が零れる。実を言うと日付が変わった頃からずっと楽しみにしていたのだ。彼女からの「おめでとう」が聞けるのを。 互いに強豪校に所属してるんだ、なかなか時間が取れないのも十分に心得ている。だからこそ、今日くらいは連絡くれたらと思っていたのに。 今か今かと着信の知らせを待っていたが、もうすっかり暗くなってしまった。すでに夕食も済ませ、あと数時間もすれば今日が終わってしまう。
もしかしたら忘れてるんじゃないだろうか、そんな不安も心の中で育ち始めてきたその時。携帯がちかちかと光った。勿論すぐに開いてボタンを押す。 ―――――待ち侘びていた、愛しい彼女からだ。
『もっ、もしもし!あの、精市くん、今部屋にいる?』
言いたいことが今一つ掴めず、肯定の返事を返して続く彼女の言葉を待つ。
『外、見て!』
彼女の指示通りにカーテンを開けて外の様子を窺ってみると、そこには会いたくて会いたくてたまらなかった小さな影が一つ。 言葉なんか発してる時間がもったいない。俺は手近なところにあった上着を適当に手に取り、羽織りながら部屋を後にした。
「…、どうしてここに」
「あのね、昨日の夜からケーキ作ってたんだけどなかなかうまくいかなくて時間かかっちゃって。あとこれ、」
かなり急いで来てくれたのだろう、は息を切らしながら必死に言葉を紡いでくれる。 差し出してくれた箱の中には、やや不格好ではあるものの俺にとっては世界中の何よりも美味しそうに見えるケーキが鎮座していた。台所で必死に格闘していた様が目に浮かぶ。
「精市くんお花好きだし、精市くんの誕生花を送ったら喜んでくれるかなって思って、折角だから自分で育てて咲かせたところ見てもらいたくて頑張ってみたんだけど、 なかなか咲いてくれなくて、」
抱え込まれてた鉢植えには、妬けてしまうくらいに大切にされていたのが伝わってくる、すくすくと育った花が植えられていた。 可愛らしいつぼみをつけて、花開く時を今か今かと待ち侘びているようだ。どうやら俺へのプレゼントにしたかったらしい。
彼女がガーデニングに奮闘している様がありありと浮かび、ふっと口の端が緩む。 リボンの巻かれた鉢植えを「ありがとう、綺麗に育てたね」と受け取ると、つぼみが花開く前に彼女の顔が満開の花のようにぱぁっと綺麗に咲いた。
「遅くなっちゃってごめんね」
「いや、こうして来てくれただけでも嬉しいよ」
つい先刻までは彼女からの連絡をそわそわと待っていたというのに、何処からこんな言葉が出てくるのか。 今日の俺の様子を見ていた部員にそう突っ込まれそうだが、全力で俺を喜ばせようとしてくれた彼女の姿を見たら正直そんなことどうでもよくなってしまった。 あの不安が嘘のように晴れやかな気分だ。……明日はちゃんと真田に優しく接してやろう、そうしよう。この幸せな気分をとにかくお裾分けしたくてたまらない。 「…き、今日は随分とご機嫌なようだな…」って引き攣った表情で言われてもお裾分けしよう。
「生まれてきてくれてありがとう」
一番欲しかったものをはくれた。それも、俺が一番守っていきたい、一番大切にしたい輝く笑顔で。それから、と彼女は付け足す。
「お誕生日おめでとう、精市くん」
「ありがとう」と答える俺の表情もきっと彼女に負けないくらいに輝いているんだろう。頬がゆるゆるとしている自覚はある。 だって仕方ないじゃないか、それだけ嬉しかったんだ。
「送って行くよ、一人で出歩いていい時間じゃないしね。…あ、それとも泊まっていくかい?」
「え、え……泊ま…っ!?」
返事は分かりきっているがあえて問うてみる。案の定、面白い反応が返ってきた。そのまま本当に泊まってくれてもいいんだけどなぁ。 なかなか会えない分、一度顔を合わせてしまうとつい引き留めたくなってしまう。
「…あれ?顔が赤いみたいだけど?やだなぁ、そういうつもりで言ったんじゃないのに」
「ねぇ、何考えたのかな?教えてよ」なんて意地悪なことを言ってみると、「……精市くんのばか」と視線を逸らされてしまった。 ……へぇ。そんなこと言っちゃうんだぁ。ふぅん?まぁいいや、今回は耳まで染まったその隠しきれない赤みに免じて許してあげよう。 彼女の素直な反応は見ていて飽きない。が立海のマネージャーだったなら毎日この反応が楽しめるのだろうか。 手塚と代わりたい、なんて一瞬思ったけれどその考えをすぐに振り払う。俺は立海にいてこその俺だし、彼女もまた然りだ。 たとえ世界の何処にいようが彼女に対する気持ちは変わらない。
まだそっぽを向いているの背中めがけて腕を伸ばし、ぎゅっと引き寄せる。腕の中でもぞもぞと動くので苦しいのかと思って少し力を緩めると、 くるりと向きを変えて今度は彼女が俺に抱きついてきた。改めて彼女の背中に腕を回し、俺よりずっと小さな彼女の身体を受け止める。 ふわり、と彼女のシャンプーの匂いだろうか、彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。それだけで満たされたような気持ちになるなんて、俺も相当重症だ。 「恋の病」なんて言葉を考えた人は、きっと俺と同じような気持ちを味わったことがあるのだろう。本当に、冷静でなんていられない。
「…本当にありがとう」
腕の中の温もりを噛み締めるように、俺は彼女の肩口に頭を寄せる。ひょっとしたら俺は彼女を守るために生を受けたんじゃないか、なんて柄にもないことを思いながら。
幸せのかけらを手にしたなら
(この温もりを何があっても守り抜いてみせる、と改めて思う)